吸 ふ



おまへさん、
おきやうは、寢息をたててゐる矢左衛門の背なに顔を押しあてた。

貧乏長屋に住んでゐる矢左衛門と夫婦になつてまう彼此弐年くらゐが過ぎただらうか。
矢左衛門は、おきやうより三つ歳上で、身の丈もおきやうが見上げるほど高く、
きりりとした眉と真つ直ぐな鼻梁を持つ男前である。

下級武士の矢左衛門の暮らしは樂であらうはずもないが、
梅待坂のお稲荷さんで、おきやうの下駄の鼻緒が切れたとき、
偶然目の前にゐた矢左衛門が、すつと屈んで直してくれ、

「これでうちまでは歩いて歸れるだらう」とちひさく笑つたその顔にこぼれた歯の白さといつたら・・・
おきやうは暫く呆氣にとられたまま矢左衛門を見つめてゐたが、
やがて、蚊の鳴くやうな聲で 「ありがたう」 と云つた。

そんなふたりをぽつぽつと降つてきた春雨が着物の肩口を濡らし、
「うちはこの近くだけど寄つて行くかい」 といふ 矢左衛門の言葉に コクリと頷きついて行つてから
ずつとこの長屋におきやうは矢左衛門と住んでゐるのだ。

一目逢つたときからおきやうは矢左衛門が好きになつた。
矢左衛門もおきやうのことを好いてくれてゐるやうで、
大事に大事にしてくれるのだつた。
おきやうは矢左衛門に優しくされればされるほど矢左衛門に妻として盡くし、
夫婦の絆は深くなるばかりだつた。

暮らしは貧しかつたが、矢左衛門が精を出してゐる番傘張りをおきやうも手傳ひ、
やうやう夫婦ふたりが食べていけるくらゐの暮らしだつたが、
矢左衛門とふたり、地道に毎日さうやつて生きてゆくことがおきやうにとつてどんなに幸せかわからない。

弐度目の夏だつた。

蚊帳のなかの矢左衛門は突然身を起こして呟くやうに云ふ。

「おまへがきてから、一度も蚊に刺されたことがない。さうじやないか」

おきゃうは身を横たえたまま答へる。

「それは、おまへさんが蚊に喰われてゐても氣がつかないだけじやないの」

「夏に、蚊遣火も焚かずに済むなんてことは生まれてこのかた一度もないぜ」

「さうですか。おまへさんに蚊が寄つてきたらおきやうが手で拂つてるから」

「それにしてもおまへ。隣の元さんが昨日、蚊のことを怒つてゐた。元さんは壱拾箇所も蚊に刺されたあとがあつた」

「元さんのはなしはまた明日にしませうよ」

「そうだな。おきやう、まう少しこつちに・・・」

暑いのに・・・おきやうは矢左衛門に抱きしめられながら 

「おまへさんとは離れられない。絶對に離れられない」とちひさく呟く。


翌日、矢左衛門は戸を開くなり、「おきやう、おきやう、いいものを元さんに貰つたぞ」と

満面の笑みを浮かべて戻つてきた。

それがなんだかわかつたときにおきやうは矢左衛門の足にしがみついて泣いた。

「おまへさん、蚊遣火を焚くのだけはやめてください。お願ひ。お願ひ」

「何を云つてゐるんだ。元さんとこにそんなに蚊が居るならうちにもゐるだらう。刺されると痒くていやだらう
ほら、かうして火をつけると」

白い煙が漂ふやうに動き始めると、おきやうの白い顔が歪みはじめた。

「おまへさん、、、おまへさん、、、」

「かうやるともつとしつかり行き渡るか」などと矢左衛門は云ひながら團扇で扇いだりしてゐるものだから、おきやうの異變には氣づかない。

しかし、やがてバタンと音がして矢左衛門は自分の足元に倒れてゐるおきやうに氣づいた。

「おきやう、おきやう、大丈夫か」

「おまへさん、その蚊遣火を外に出しておくれ」

矢左衛門は慌てて蚊遣火を表に投げ捨てた。
そしておきやうを抱きかかへると 「おきやう、おきやう」とおきやうの身を遙すつた。

「おまへさん、ごめんよ。おきやうはおまへさんに隠してゐました。
おきやうは愛しいおまへさんの血を啜つて生きてゐた惡いをんなでした」

「何を云つてゐるんだ。おきやう、しつかりしねえか」

「おまへさん、聞いておくれ。おきやうは毎日人の血を啜らないと生きてゆけない魔性のをんな。
この口からひゆるると針より細い管を出しておまへさんの肌にそれを突き刺して毎日毎日おまへさんの血を啜つてゐたんだよ」

「おきやう、嘘を云ふな。そんなことあるはずがないぢやないか」

「おまへさん、ほんたうなんだよ。おまへさん、許してください。おきやうはおまへさんと逢へて幸せだつた。
おまへさん、ありがたう」

「おきやうーおきやうー」

おきやうは矢左衛門のかひなに抱かれてこときれてゐた。

矢左衛門はおきやうの亡骸を抱いていつまでも泣いてゐた。






(c)Picasso
museum
Paris
山科 真白(Mashiro Yamashina)

WEB月刊誌 てがぬま 寄稿
2003年 9月